監査部の荒木です。今回は仕事の事から離れて、最近気になっていることを書こうと思います。それは「民主主義」についてです。今まであまり深く考えたこともなかった事なのですが、3人家族の我が家においては、意見が分かれたとき、妻と息子(5歳になりました!)がタッグを組み、多数決の結果、僕は2対1で負けるということが常態化しています。
「これってほんまに民主的なことなんかなぁ?」と疑問(不満?)に思っていたところに出会ったのが、『「民主主義」<1948-53>中学・高校 社会科教科書エッセンス復刻版 文部省著 西田亮介編』という本です。これは、戦後間もない日本において、民主主義というものがどういうものかを10代の子供たちに教えるための教科書として出された本の復刻版で、2016年に出版されました。
そこにはこうあります・・・
・・・「多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの現れであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それはみんなの心の中にある。すべての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。・・・したがって、民主主義は、きわめて幅の広い、奥行きの深いものであり、人生のあらゆる方面で実現されて行かなければならないものである。」 ・・・「おおぜいの国民が、自分たちには政治のことはわからないと思って、投げやりの態度でいれば、話はもちろん別である。国民がそういう態度だと、かならず策謀家や狂信主義者が現れて、事実を曲げた宣伝をしたり、必要以上の危機意識を鼓吹したりして、一方的な判断によって無分別な国民を引っぱっていこうとする。そうして、わけもわからずに行う投票の多数を基盤として、権力をその手ににぎる。これに反して、せっかく自分たちの手に与えられた政治の決定権を、ふたたび独裁者に奪い取られてはならないと思う国民は、政治の方向を自分たちで決めていくことによって、自分たちにとって生きがいのある社会を築き上げようと努めるであろう。民主主義は、国民の中のどこにもここにもいる「普通人」が、それだけのことをする力を持っているという信頼のうえに立脚している。いいかえると、民主主義は、自分たちの意志と努力とをもってよい世の中を作りだしていこうとする、一般人の自頼心によって発達する。」・・・ |
民主主義が「心」の持ち方の問題だったとは、かなり衝撃です。また、内容を要約しますと、選ばれた側は、自分を選ばなかった者の意見も価値あるものとして耳を傾け、また選ぶ側は、選ぶ際には選ぶ者を見極める努力をし、選んだ後も自分が選んだ者がその後どういう行動・態度を取るのかをきちんと見届ける必要があるということでした。
また、多数決に関しては、
・・・「多数決という方法は、用い方によっては、多数党の横暴という弊を招くばかりでなく、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある。なぜならば、多数の力さえ獲得すればどんなことでもできるということになると、多数の勢いに乗じて一つの政治方針だけを絶対に正しいものにまでまつり上げ、いっさいの反対や批判を封じ去って、一挙に独裁政治体制を作り上げてしまうことができるからである。・・・多数意見の方が正しい場合にも、少数の反対説のいうところをよく聞き、それによって多数の支持する意見をもう一度考え直してみるということは、真理をいっそう確かな基礎の上におくゆえんである。これに反して、少数説の方がほんとうは正しいにもかかわらず、多数の意見を無理に通してしまい、少数の人々の言うことに耳を傾けないならば、政治の中にさしこむ真理の光はむなしくさえぎられてしまう。・・・だから、多数決によるのは、多数の意見ならば正しいと決めてかかることを意味するものではないのである。ただ、対立する幾つかの意見の中でどれが正しいかは、あらかじめ判断しえないことが多い。だから、多数決によって一応の解決をつけるのである。つまり、多数決は、これならば確かに正しいと決定してしまうことではなくて、それで一応問題のけりをつけて、先に進んでみるための方法なのである。」・・・ |
ふむふむ、ということは、我が家で行われている多数決は、単に少数派(僕)の意見を排除するためのもで、そこには違う意見でも尊重しようとか、そういう「心」も全く見えないので、やはり「民主主義じゃない!」ということかも・・・