松田事務所の荒木です。先月は監査部の原がM-Timesの裏面を担当し、びわ湖花火大会についてのアレコレを書いていました。文章を書く、というのは難しいことだと思います。しかも、写真等である程度の調節ができるとはいえ、A4用紙1枚分のスペースをギッシリ文字で埋める、となるとそれなりに読み応えのあるものが求められますので、更に難しさがアップします。ということで、担当となった者は毎回ヒーヒー言いながらも(ヒーヒーの個人差はありますが・・・)何とか書き上げているのがこのM-Timesとなります。
原の場合はと言いますと、文章を書く経験が浅いということもあってか、ある程度のカタチに仕上がるまでの道のりが遠く、毎回、編集長である総務部の石田から数々の指摘を受けて何度も書き直しをしています。先月のびわ湖花火大会に関しては、たまたま事前に原稿を見た監査部の小島が、これではいかん!と思ったのか、夜ナベまでして「指摘事項一覧表」なるものを作成し、石田と2人がかりで原のサポートを行っていました。
そして、その様子を見ながら僕は、サポートすることはそっちのけで(すみません…)、「学ぶ」というのはどういうことなんだろ?ということを考えていました。神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は言います。
「学ぶ」というのは一言で言えば「別人になること」である。「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」という話がある。三国時代の呉の国に呂蒙(りょもう)という将軍がいた。勇猛な武人であったが、惜しいかな学問がない。主君の孫権が「将軍に学問があれば」と嘆じたのに発奮して、呂蒙はそれから学問に励んだ。しばらくしてのちに同僚の魯粛(ろしゅく)が久しぶりに呂蒙に会ってみると、その学問の深さ見識の広さはかつての彼とは別人であった。魯粛は「君はとてもかつて『呉下の阿蒙』(いつまでも進歩しない者。昔のままの無学な者という意味)と呼ばれていた人とは思えない」と驚嘆した。これに対して呂蒙は「士別れて三日、すなわちさらに刮目して相待すべし」と答えた。士たるものは三日会わないでいると別人になっているぞ、と。 私が子どもの頃には時々この話をする年長者がいたが、ある時期からいなくなった。単に漢籍の知識を重んずる風が失われたということではなく、人間が知的に成長するというのは「別人になること」だという知見そのものが失われたためだと思う。知的成長ということを現代人はたぶん「知識の量的増大」というふうに考えている。人間としては何も変わっていないのだが、脳内の情報ストックが増えている状態を「成長」と呼び習わしている。だから、何日経って会おうともとりわけ「刮目する」必要はない。「入れ物(コンテナ)」は同一で、「中身(コンテンツ)」が増加しているだけだからだ。でも、それは「学び」とは違う。学びというのは「入れ物」自体が変わることだからである。「刮目」してまみえないと同一性が確信できないほどに人間が変わることだからである。学びが深まれば、話す内容が変わるにとどまらず、表情も、声も、挙措も、着付けも、すべてが変わる。 「私たち」に知的に「欠けているもの」があり、それを充填したい、として行う営みは「学び」ではなく、「補充(supply)」と呼ぶべきだろう。「補充」なら「入れもの」は同一性を保ちながら、「中身」だけが増えてゆくありようを正しく伝えられる。 |
文章を書く、ということによって本質的に僕たちが原に求めているものがあるとしたら、それは、現時点で原に「欠けている」ものを「補充」して、サラサラ~っと文章を書けるようになってほしい、ということではありません。文章を書く、ということからでも、「別人となるくらいに成長ができる」ということを知ってもらうことです。
と、いつもの如く熱く語っちゃっていますが、実は僕自身、「学ぶ」ということを全然分かっていません。頭では、ふむふむ、なるほど、そういうことか、と思いながらも、実際どうすれば別人となるくらい成長する「学び」に到達できるのかもチンプンカンプンです・・・。
でも、今改めて自分自身のことを振り返ってみて思うのは、この事務所に入る前と今とでは、何かがあった時に湧き上がる感情だったり、咄嗟に出る言葉だったり、思わず取る行動だったりと、そういう本当にちょっとした何気ないところが以前とは明らかに異なっている様な気がします。それが「学び」によるものだとすれば、それは、所長の松田や諸先輩方、そしてお客さんを含め周りの色々な方々から日々知らず知らずのうちに「学ばせて」もらっている事の結果なんだと思います。
そして、いつか原にも、単なるノウハウや知識の「補充」だけではなく、本来の「学び」というものを自分は得ているのでは、とふと思えるような日が来ることを密かに願っていたりもします。