M-Times 2024.7

自分の時間を差し出す

 松田事務所の荒木です。僕が住んでいる町内は120世帯程が6つの組に分けられており、それぞれの組には組長がいます。そして、組長は基本的に家の並び順で毎年決まっていくことになっています。また、それとは別に、会長・副会長・会計の計3人が決められ、各組の組長である6人と合わせて合計9人で1年間町内会の"役"というものを担っていくことになります。

 実は今年"会計"という大役を仰せつかることになりました。組長ですらまともにやった事が無かったので、何をどうしたらいいのかチンプンカンプンですが、他の方々に助けられながら何とかやっています。

 まだ今年度が始まって3ヶ月程にしかならないのですが、町内会の役員として関わるなかで、ちょっとしたトラブルに遭遇しました。最近は町内会に入らない、という家もあるということは聞いていましたが、実際にうちの町内会でも「入る・入らない」問題が起きまして、結局、町内会に入るメリットが無いということで、その方は「入らない」を選択されることになりました。そして、この事をきっかけに自分なりに町内会というものをあれこれ考えてみることにしました。

 実際、町内会の"役"をやってみますと、町内会として色々な取り組みをしているのだなということを知ることができます(昔は今と比べ物にならないくらいの取り組みがあったそうですが…)。そして勿論、これらの取り組みを行うにはそれなりに時間を要するわけですから、そのために役員の方々は自分の時間を差し出して、色々な「場」に出て来られている、ということになります。そんなのめちゃめちゃ当たり前過ぎることなんですが、僕の場合は自分の時間を差し出したことでようやくきちんと理解できるところまで来ました。

 そして、そういったことが理解できた結果として最近思うようになったのは、仮に町内会自体が、今はもうそれ程意味の無いものになっていたとしても、「自分の番が回ってきたら、そっと自分の時間を差し出す」という仕組み自体には意味があるのでは、ということです。

 考えたらすごい仕組みだなと思います。差し出すことになる「自分の大切な時間」に見合うものが得られるわけでもなく、損得だけで言えば明らかに「損」が大きいにもかかわらず引き受けるわけですから。勿論、中には「町内」に対する愛情を持ち、「町内」を守りたい、という気持ちから引き受けられている方もいらっしゃるでしょうけど、恐らく大半の方にはそこまでの想いはなく、ただ、「順番が回ってきたからやる」「引き受けてくれないか、と頼まれたからやる」くらいの感じだと思います。でも、だからこそすごいなと思うわけです。自分にとっての「損」の方が大きいにもかかわらず、「自分の番が回ってきたから」というだけで、自分の大切な時間を差し出しているのですから。(と、僕が勝手にそう思っているだけなので、諸々違っていたらすみません…)

 確かにそういう仕組みって同調圧力のようなものであったり、いじめに繋がったり、と色々問題になる側面がありますから、安易に採用することはできないと思います。ただ、「町内会」や「PTA」(実はPTAも町内会と同じような面があるのではと考えていまして…)といったものにはそれなりに機能するような気がしています。どちらも「自分の番が回ってきたら、そっと自分の時間を差し出す」人たちのおかげで何とかその「場」が守られている、というような状況だと思いますので。

 もし仮に、多くの人が、損得だけを考えた上で「自分の時間を差し出す」かどうかを判断する、ということを常態にしてしまったとしたら、「組織」(特に営利を生まない組織)というものは今後維持していくのが困難になっていくような気がします。更にもっと言えば、自分たちにとって一番身近である家庭内においても、同じように損得だけの判断によって「自分の時間を差し出す」ということをしてしまうようになったら…と考えたら怖くなりますが、さすがにそれは無い…ですね。

 でも、どちらにせよ「自分の時間をそっと差し出す」ということを「自然」にできる人が多い程、そこに属する皆にとって居心地の良い「場」になる気はします。周りで誰かが困っている時、忙しそうにしている時、何かが片付けられずに放置されたままの状態になっている時、それに気が付いた「誰か」が「自然」にそっと自分の時間を差し出して、手助けをしたり、片付けをしたりすることで成り立つことって結構あるような気がしますから。

 と思いながら、自分自身を振り返ったら・・・僕自身は全然だったりしますが・・・ま、これもボチボチということで。